大学審議会答申について
平成10年10月26日に出された大学審議会答申は現時点の大学・大学院
の抱える問題を踏まえ、21世紀初頭の高等教育の方向性を与えるものとして
各方面から大きな関心寄せられている。
大学の現場で日々学生と接し、また研究に携わるものとして、この答申を読ん
でみたとき、うなずける点がある反面その積極的な提言の中には、必ずしも問
題の本質を捉えていないものもあり、また長年培われてきた学問の自由にとっ
て極めて危険な内容も含まれている。
このような答申に対して大学のとるべき態度は、そのまま金貨玉条のごとく受
け入れるべきではなく、また完全に無視するべきでもない。大学の本来の姿と
未来への正しい発展のあるべき姿に照らして、批判すべきは批判すべきであろ
う。またそうすることが大学の使命そのものであると考える。
以下答申の問題点に対する私見を述べる。
1. 第三者評価機関による評価とそれに基づく資源の再配分(P116−124)
大学の使命は、知的営為を通してあらゆる状況の変化に対応できるための知識
の蓄積、文化の継承、技術の間断なき革新を行うものである。これらの活動は、
単一の機関で測れる範囲を遥かに越えた多様なものであり、世界各国の大学の
独自な活動を通してのみ保たれるものである。この多様性こそが未来における
発展の礎となるものである。
第三者評価機関による第三者評価は、これを画一的に評価することになり、そ
れに基づく資源の再配分は大学の国家管理に相当する結果をもたらす。これは
答申14頁にうたわれる「それぞれの目指す方向の中で多様化・個性化を図り
つつ発展していくことが重要である」という提言と矛盾するものである。
さらに重要な点は、歴史の中で科学技術研究が国家に統制されたとき、ナチス
ドイツや原子爆弾の開発など人類に悲劇をもたらしたことは忘れてはならない
事実である。したがって、本答申の提案は、学問の自由への大胆な挑戦といわ
ざるを得ない。
もっとも、学問の自由が時代と共に変遷し、今や知識欲だけからの学問は成り
立たなくなっていることも事実である。学問は、地球と人類の安定した未来を
希求するものでなくてはならず、大学が研究と教育を自らの手で律することは
今や不可欠の時代であることも確かである。しかし、これはあくまでも個々の
大学独自の点検と相互の批判に基づいて行われるべきものであり、国の機関の
監視下に置かれることとは相容れないものである。
2. 事務改革(P34、109ー110)
私企業と比べてみると、大学における事務の煩雑さと無駄の多さはあきれるほ
どである。一日の出張にも、事務官10人ほどの印が押された出張命令簿が作
成され、数十万円の計算機を買うのにも膨大な資料が作成される。これは、国
家予算の執行としてどこから疑問が呈されても答えられるようにという省・庁
で決められた事務手続きがそのまま行われているのであろう。煩雑な事務の改
革なくしては、大学の機能性を高めることは不可能である。
事務改革だけをとってみれば、独立行政法人化も一つの解答ではあろう。しかし、
大学はそれ自身の使命があり、学問の自由で多様な発展を図るには、国による
財政の保証が不可欠である。
大学の事務は、決して「規則を守るため」にあるのではなく、「学生を育て」、
「研究を進展させる」という大学の本来の営みを効率よく行うために存在するも
のである。
3. 教官の意識改革(P11、39)
研究に重点を置いている教員が多く、教育に対する責任感がないという現状分析
は、全く問題の核心を見逃したものである。研究はできても教育ができない者、
教育はそこそこできても研究は全くできない者、研究も教育もできない者が実際
に存在することを見逃してはならない。教官の意識の問題ではなく、教官の質こ
そが問題である。
教養部教育が問題であるという指摘から数年前に、大学設置規準の大綱化が行わ
れ、大学はこぞって教養部を廃止した。しかし、教養教育の質の改善はまだ程遠
く、さらに共通教育の無責任化が進んだのは答申にある通りである。要は組織の
問題ではなく、人の問題であったということである。また授業の質の向上は言う
までもないことであるが、教官の質の向上を如何に図るかがさらに重要な課題で
ある。
4. 組織運営体制(P35、99)
学長のリーダーシップによって、適時適切な意思決定を行い実行する運営組織の
確立が提言されている。しかし、総合大学では、部局によってその哲学が異なり、
安易な権限の集中は組織の荒廃を招く。権限の集中には、独裁化の危険性が常に
伴い、大学のバランスのよい発展が阻害される危険性が大いに考えられる。
教官による学長のリコールが可能なシステムがなくてはならない。
審議機関と執行機関を分離することは、大学の運営の機能性を高める上で有効で
あろうが、学長の独裁化を防ぐために審議機関の議長は執行機関とは関係なく選
ばれるべきである。
5. 提言の中で評価できるものがいくつか存在する:
1. 学生数の減少に伴い、大学入学者の質の低下が否めない。成績評価を厳格に
行って、卒業者の質を確保することは重要であろう。それに伴い、高度な専門
教育を大学院へ移すこと、大学の入学試験制度の抜本的改革も必要となる。
2. 大学が、いくつかの形態でありうることが提言されている。実際、すでに多く
の大学は異なった目標をもって運営がされている。大学自身がその独自の目標
を掲げ、個性化することは重要である。
3. 教養教育が形骸化していると指摘されて久しいし、また数年前の教養部解体の
波の中で登場した全学共通教育も本来の目的を達しているとは言い難い。総合
大学としての目標を掲げた時、その課すべき教育は自ずと決まり、また負担の
集中をなくし、適材を用いた教育が可能となろう。
6. 問題の指摘は正しいが、認識が正しくないと思われるものが多い:
1. 時代認識:地球規模の競争が一層激しくなるとういう指摘は、誰と誰とが争う
のか不明である。
また自然との共生がうたわれる時、日本の現実が正しく捉えられているのであ
ろうか?
21世紀における知の構築がうたわれているが、実際はもっと具体的な問題
(環境、エネルギー、人口)の解決が緊急課題であり、悠長に構えている時で
はない。
21世紀の課題は、世界的には地球共存圏のサステイナビィリティーが問題で
あり、日本ではその社会基盤の確立が問題となる。
2. 学際領域や学科間の共同の研究が重要となることは言を待たない。しかし、教
育はその基礎となる哲学を教えるものであり、基盤を固めることなく学際研究
は成り立たない。むしろ、科学研究費などによる学際領域の研究に対するサポ
ートを増すことが重要である。
3. 大学院の重点化などによって大学院の整備が行われ一定の成果を上げている。
しかし、大学院生の質の低下を招いていることも事実である。さらに、博士課
程卒業者の就職が極めて難しく、またポストドック後の就職が不可能に近い現
実が全く認識されていない。オーバーポストドック問題は社会問題化しつつあ
る。
4. 受講数の制限や、3年次卒業の可能性、留学生のためのセメスター制度が提案
されている。いずれも、現場の教育の実態からは不必要なことである。授業を
きめ細かにやれば、学生は自ずと受講数を減らさざるを得なくなる。受講数の
制限を規則とすると、能力のある学生の成長を阻害しかねない。
また、4年次の卒業研究は課題探求能力を培う上で最も重要なものであり、4
年間の学部教育は必要である。しかし、修士の学位や博士の学位は1年や3年
で習得できるようにすることは可能であろう。また、教育の効率を上げるため
に、4単位の講義を週3時間開講し、半期に終わらせるというアメリカ型セメ
スター制度を導入することは考えられる。
5. 単位の互換性は、大学の個性化と反するものである。一つの大学に居て、他大
学の単位を取れるようにするよりも、むしろ大学を移ることを可能にするほう
が教育効果はあがる。